龍子の扉


龍子は、中谷吉隆の俳号です。

写真家 中谷吉隆 伝えたい昭和 写真、エッセイを通して時代を綴る

写真とエッセイで綴るー取材ノートより① ―ミスター・ラグビー 平尾誠二さんの早世を悼む―

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ラグビー界の至宝であり、華麗なプレーでファンを魅了し、ミスター・ラグビーという称号がぴったりの平尾誠二さんの訃報には、驚きよりもショックの方が強かった。53歳という若さだった。

ちょうど20年前の1996年10月に、彼の所属する神戸製鋼ラグビー部で、ある雑誌の取材をした時を思い出す。

前年の1995年1月の日本選手権で社会人№1の神戸製鋼は、大学№1の大東文化大学を相手に、102:14という選手権史上初の100点ゲームを演出しファンを驚かせ、新日鉄釜石に並ぶ7連覇の偉業を達成していた。

しかし、この大差の結果は社会人チームと大学チームの実力の差を見せつけたもので、毎年1月15日に行われる恒例の大学№1対社会人№1が対決する、日本選手権のあり方に議論が巻き起こり変革につながる。インタビューしたのは、8連覇を逃した年であったが、神鋼ラグビーとは何か、また日本のラグビー全般に対しての彼の理念、考え方を熱っぽく語ってくれた。

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試合においては、「オールウェイズ・アタック(常に徹底して攻め切る)」がテーマであり、それには「イメージ」をどう持ち、それを実現するための「マネージ力」が必要で、この連続性が創造を生み、ラグビーの醍醐味である。と語り、そして、8連覇を逃した原因は、常勝に慣れ、「楽をして勝とう」という意識が選手にあったからで、クリエーティビティーが欠如していたと分析していた。

京都伏見工高3年時に主将として全国高校大会で初優勝し、同志社大学入学と同時にラグビー部に所属し、19歳4カ月で日本代表入りを史上最年少で果たした、いわば天才的なラガーの試合を目にするのは、1982年9月23日、秩父宮ラグビー場での日本代表と日本B戦の試合が最初で、どんなプレーをするのか楽しみで出かけた。しかしまったく不運なことに、試合開始早々に右膝を骨折し、タンカで退場してしまい、この日は雄姿をキャッチできなかった。

写真3
同大ラグビー部は他の大学とは違い監督を置かず、自主性を重んじる気風だったが、全国大学選手権3連覇の一歩を踏み出した1983年6月に、京都岩倉の合宿所でインタビューしたことがある。

先輩の大八木選手らのチームメイトとストレッチなどに励んだりしていたが、和気あいあいとして伸びやかだった。ラグビーに対する目標と信条を訊くと、「クリエーティブなプレー、ありきたりでないプレーを目指す」と、甘いマスクで答えたのが印象的だった。

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だが今にして思うと、冒頭のインタビューで語ったように、学生時代からこの考えは一貫していたわけで、その創造的なラグビーが大学史上初の3連覇につながる。そして、学生一の強力なフォワードを持って、日本選手権で4連覇中の新日鉄釜石に挑むが、同大8:21(釜石V5)、同大10:35(釜石V6)、同大17:31(釜石V7)と、松尾雄治選手らを有する、試合巧者の、溶鉱炉の炎を連想させる真っ赤なジャージーの新日鉄釜石の壁を崩せず敗退する。

第22回日本選手権対新日鉄釜石戦に気合いを入れて臨む平尾選手。試合は31:17で負ける。1985年1月15日国立競技場
第22回日本選手権対新日鉄釜石戦に気合いを入れて臨む平尾選手。試合は31:17で負ける。1985年1月15日国立競技場
同大卒業後、英国リッチモンドにラグビー留学しデザインなども学ぶが、持って生まれた容姿からファッション誌に登場する。しかし、これが日本ではアマチュア規定に反すると、日本代表候補選手から除外されるなど物議をかもしたりもした。

1986年に神戸製鋼所に入り、ラグビー魂はより一層磨かれ、第26回日本選手権から神戸製鋼を7連覇に導く。その選手権V1への第一歩を踏み出す、第41回社会人大会決勝で、前年日本一となって勢いに乗る東芝府中と対戦が強烈だった。

グラウンドはぬかるむ悪コンディションで、前半はノートライに抑えられ劣勢だったが、後半4トライを奪い逆転し23:9で勝ち、社会人人№1となったのである。

全身泥まみれになって、表彰式に臨み喜びあう平尾選手(右から二人目)、いつもとは違うひょうきんな表情だった。左端が大八木選手。1989年1月10日秩父宮ラグビー場
全身泥まみれになって、表彰式に臨み喜びあう平尾選手(右から二人目)、いつもとは違うひょうきんな表情だった。左端が大八木選手。1989年1月10日秩父宮ラグビー場
社会人人№1となり、7連覇をとげた新日鉄釜石以来の、溶鉱炉の炎をイメージした赤いジャージーの神戸製鋼が、国立競技場の舞台に登場してくる。そしてこの年、関東の伝統校である早稲田、明治、慶応などを退け、大学№1となった大東文化大と第26回日本選手権を争った。

平尾選手の正確なボールコントロールはチームに信頼感を与えた。対大東大との試合を46:17で勝ちV1を果たす。1989年1月15日国立競技場
平尾選手の正確なボールコントロールはチームに信頼感を与えた。対大東大との試合を46:17で勝ちV1を果たす。1989年1月15日国立競技場
その後、何年も彼のプレーを追うが、常にスマートでけれんみのない情熱に満ちた姿を見せ、撮っていて楽しかった。ラグビーはフォワードとバックスがかみ合い、連携しなくてはゲームは作れず、試合におけるマネージメントの意外性には驚かされたものだった。

ステップワークの華麗さをスローシャッターで狙った。第41回社会人大会1回戦、対マツダ戦で。1990年12月24日秩父宮ラグビー場
ステップワークの華麗さをスローシャッターで狙った。第41回社会人大会1回戦、対マツダ戦で。1990年12月24日秩父宮ラグビー場
熱血漢であり、冒頭のインタビュー直後の1997年には最年少で日本代表監督の就任。その後神戸製鋼の総監督や日本ラグビー協会の理事などを歴任し、日本のラグビーの改革や発展に貢献する。

だが、なんといっても2019年に日本で開催されるラグビーW杯に向けての思いは強かっただけに、やり残したことは多くあり無念だったに違いない。

胆管細胞癌で闘病中だった天才的ラガーの全く早いノーサイドの冥福を祈りたい、合掌。

第32回日本選手権で大東大を翻弄し、トライに向かう平尾選手。102:14で圧倒しV7を果たしたが、左膝のテーピングが痛々しかった。1995年1月15日国立競技場
第32回日本選手権で大東大を翻弄し、トライに向かう平尾選手。102:14で圧倒しV7を果たしたが、左膝のテーピングが痛々しかった。1995年1月15日国立競技場

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