龍子の扉


龍子は、中谷吉隆の俳号です。

写真家 中谷吉隆 伝えたい昭和 写真、エッセイを通して時代を綴る

私の選んだ人〜おスタちゃんから島津貴子へ ─その弐─

終戦から15年目の昭和35(1960)年は、日本にとって激動の年と言える。新しい日米安保条約が調印され、全国各地で政治ストや国会を取り巻く大規模なデモが渦巻いた。

そんな中、3月10日に東京の高輪光輪閣で、天皇、皇后両陛下御出席のもとに、島津久永氏と清宮貴子(すがのみやたかこ)内親王の結婚式は行われ、午後から千代田区の日本海運倶楽部で、兄上の皇太子殿下をはじめ高松宮、三笠宮などの皇族たちが出席して披露宴が行われた。

結婚式が終わり、記者会見に臨んだお二人は幸せそうであり、「宮さまをこれから何とよばれますか」の質問に、久永さんは「さしあたってはタカコ。さしあたってですよ」と念を押すように答えられ、ベージュのカクテルドレスに着替えた、貴子夫人は「私ですかウフフ」と明答を避けたが、終始笑顔を絶やさない会見だった。これでこれまでの「おスタちゃん」から「お貴(タカ)さん」となり、国民の注目を浴びていく。

前年の美智子妃殿下のときのような華やかさはなかったが、さすがに天皇家の人気者であって、結婚式場から披露宴会場までの道筋では、多くの人々が沿道を埋め、日の丸の小旗を振って祝福した。また新居となる上野毛の地元では「ちょうちん行列」を企画したが、久永氏のたっての願いで取り止めになったが、お二人が到着した夜遅くまで祝福の人たちで埋まっていた。

勤めていた東京新聞を離れていた私は、フリーカメラマンとして、ある日は政治がらみの社会の動きを追い、「おスタちゃん」の結婚式が近づくにつれ、婦人誌、グラフ誌、週刊誌などの依頼を受けて、「やれ、新居を訪れる」、「デパートの美容院に行かれる」など、いわばパパラッチのごとく皇居から出られた「おスタ」を追った。

また、久永氏取材のアポが取れたからと成城の自宅へ赴く日々だった。そんなときは必ず久永氏の母上久子さんがご一緒されていて、自ら顔見知りとなり、あるときデパートの喫茶室でゆっくりお話をする機会を得て、「中谷クンも若いのに頑張っていますネ」「これからも二人を見守って下さい」と、母上から言われ、いわば信頼を受けたカメラマンとなったのだった。いくら平民となったとは言え、雲上人に変わりなく、どう付き合っていけばいいのか分らなかったが、できることはやっていこうと心に決めたものだった。母上は当時家庭裁判所の調停員をされていて、同居されていた。

結婚式を終えて、東京世田谷の上野毛にある自宅に入られたが、自転車の荷台に乗り、塀越しに内部を覗きこむ人たちが現れ、この現象はしばらく続き、島津家を悩ませた。(1960年3月10日撮影)
結婚式を終えて、東京世田谷の上野毛にある自宅に入られたが、自転車の荷台に乗り、塀越しに内部を覗きこむ人たちが現れ、この現象はしばらく続き、島津家を悩ませた。(1960年3月10日撮影)
結婚後、お世話になった宮家や方々への挨拶回りに多忙な日々が続き、その度に貴子さんの洗練されたセンスのお召物姿が注目を浴びた。(1960年3月撮影)
結婚後、お世話になった宮家や方々への挨拶回りに多忙な日々が続き、その度に貴子さんの洗練されたセンスのお召物姿が注目を浴びた。(1960年3月撮影)
結婚後、お世話になった宮家や方々への挨拶回りに多忙な日々が続き、その度に貴子さんの洗練されたセンスのお召物姿が注目を浴びた。(1960年3月撮影)
しばらくして新生活の家庭内でのくつろぐ一家の撮影を撮ることが許された。(1960年4月、自宅で撮影)
しばらくして新生活の家庭内でのくつろぐ一家の撮影を撮ることが許された。(1960年4月、自宅で撮影)
自宅の窓辺でのショットだが、表向きの顔とは違う自然な表情が得られ、貴子さんも気に入ってくれた一枚。(1960年4月撮影)
自宅の窓辺でのショットだが、表向きの顔とは違う自然な表情が得られ、貴子さんも気に入ってくれた一枚。(1960年4月撮影)
沈思黙考?する母上とのツーショット、貴子さんは母上を「ママ」と呼んでいた。(1960年4月撮影)
沈思黙考?する母上とのツーショット、貴子さんは母上を「ママ」と呼んでいた。(1960年4月撮影)
季節の変わり目ごとに、自宅でくつろぐ一家の撮影があり、このときも何社かが重なり、私の撮影中を他社のカメラマンが撮ってくれた。(1960年7月)
季節の変わり目ごとに、自宅でくつろぐ一家の撮影があり、このときも何社かが重なり、私の撮影中を他社のカメラマンが撮ってくれた。(1960年7月)

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